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父さんと延々(father and forever)

保育と映画と読書たまに主人

老眼と減塩(主人と労働の話)

主人がキレている。確かに普段から社会や一定の層の人間に対して斜に構えているところはあるが、いつも温厚で怒ったところをわたしは見たことがない。出会った頃から、結婚して今の今まで、一回たりとも見たことがない。その主人がキレている。静かに、憤っている。主人はひょろひょろのガリガリで腕も細い。しかし外見からは想像もつかないほどとてつもなくタフだ。そういった主旨のお褒めの言葉を頂いたからだそうだ。

主人は真っ黒な会社に勤めている。朝は7時半に家を出て、帰宅するのは23時を回ってからだし何ならオイオイ日付変わるぞってくらいにもなるし(ちなみに通勤時間は1時間かからないほどだ)、月に一度や二度は土曜日がなくなる。たまに日曜日もなくなる。限界労働だ。そりゃもっとヤバい人もいるのかもしれないがそんな人はしのごの言わずに早くそこから逃げ出した方がいい。
そんなもんでわたしの知人に主人のことを話すとまあ大抵「え、それって大丈夫なの?」みたいな反応が返ってくる。無理もない。決して大丈夫ではないのだ。わたしも「よく生きてられるなこの人」と思いながら帰りを待っている。しかしそんな主人が新卒からここまで勤め上げてこられたのも他ではない、主人が「本気を出さない・常に余力を残しておく」ことを至上としてきたからだ。

主人は常に省エネモードだ。それは前述した「いつも斜に構えている」彼の面倒な性格のせいかもしれない。しかし本気を出さないというのは決して努力をしていないわけではない。体が資本と言うのは金言であって、彼は自身が潰れないように細心の注意を払っているのだ。わたしは数年前、文字通り朝から夜までそしてそのまま次の朝へとフル稼働していたら物の見事にポシャってしまった。脳内麻薬でハイになっていたので疲労を感じてはいなかったが(当時は若いから無茶をしても大丈夫なのだと思っていた)、良くないものは確実に蓄積していくものである。主人はそんなわたしを「(わたしの)気分を害するだろうから」という理由で特に止めることもなく好きなようにやらせてくれていた、そして望むように出力MAXを続けて続けてガス欠し薬漬けになったわたしをも献身的に支えてくれた。そんなわたしを見ていたことも多少影響しているのかもしれないが、主人はいつでも「いのちだいじに」で最小値の最大値を求めるような人だった。野菜詰め放題で1枚のビニール袋に頑張って野菜を詰め込むような、決してビニール袋を増やしたりはしない生活を送っていた。



そんな主人が、今キレている。偉い人にタフであることを褒められたからだ。

私はタフだと褒められたが、じゃあ心を病んで会社を去ってしまった人は弱かったからなのか?弱かったから耐えられなかったのか?否、彼も今までこの会社でやってきて十分に強い人だった。決して弱かったわけではない。ちょっとその人がたまたま弱かったから脱落してしまったんじゃない。こんなことを続けていたら次に潰れるのはお前だ。

主人は灯りを消した寝室でわたしにそう言った。無念であったことだろうと思う。わたしはてっきり任命されてしまったのだと思っていた「労働状況を改善する役割」にも、自ら手を挙げたのだということを聞いた。わたしは、義憤に燃える主人の背をさすってやることしかできなかった。とても優しい人だ。レイモンド・チャンドラーもびっくりだ。彼は本当にタフで優しい。こんな人がそうそういるものか。

しかしわたしは不安に思っているのである。怒り、憤りというのはネガティブターボエンジンだ。物凄い馬力だろう、だけどさ、だけどさ、君、本気を出すつもりなんだね?本気で何とかしてやりたいと思ってるんだね?今まで常にセーブしてやってきたところを、ガチのマジになろうとしてんだろう?
わたしは心配なんだ、本気を出して、遮二無二やった君が、次に潰れちまうんじゃないかって。そんな、他の奴らのことはどうだっていい、頼むから一刻も早く逃げ出してくれ。本当はそう言いたいんだ。いつものようにのらりくらりと厄介ごとを回避して生きてくれ、本当の本当はそう思っているんだ。でもさ、そんなこととてもじゃないけど言えなかった。君のその高潔さがとても美しかったからだ。

愚直に生きたいと思う君をわたしは止めることは出来ない。それは君の気分を害する恐れがあるからではない。もし結果として大きな力に潰されてしまったとしても、愚直に生きたことで自分の底に残るひとかけらの何かがあることをわたしは知っているからだ。

やってやれ、やってやれよ主人。やりたいようにやるんだ。こんなのがまかり通ってるなんておかしいよな?絶対絶対おかしいよな?ブチかましてやろうぜ主人。噛み付いてやれよ主人。期限を決めてそこまでに何にも変えられなかったら、何も変えられなかったことを理由に辞めてやるって言ったよな主人。いいぞ、その調子だ。もしダメならそのときは失業保険とわたしの少ない収入で慎ましく暮らそう。収入のことなんか気にすることはない。主人、君はすごいよ。本当にすごい。わたしは君を誇りに思う。

でも、頼むから、後生だから、ちゃんと生きてわたしのところに帰ってきてくれ。わたしはご飯を作って君の帰りを待っているから。