筋トレと料理

 

ものを伝える力以外で、筋トレに類似していると私の考えるものに料理がある。

手前味噌ながら私はまあそこそこ料理が出来る。勿論プロの料理人には遠く及ばないが、家庭料理は概ね作ることが出来る。ここで主題をより正確に表すならば、家庭料理とは筋トレである、と言いたい。要するに、やればやっただけ力がつくのだ。

多分私は料理の才能はない。そそっかしいし、面倒くさがりなので。しかし、料理を飯の種にすることは出来ないけれど、家庭料理を毎日作り続けることは(そりゃたまにはサボるけど)出来る。家庭料理と店で出てくる料理との大きな違いである。雪が降ろうと槍が降ろうと自分が自分(あるいは家族も)の腹を満たすために、毎日作り続ける必要があるのだ、家庭料理とは。だからある程度テキトーにやることが大切だ。本当にさ。

おそらく筋トレも、全く筋肉が付いていないのにハードなワークアウトをしようとすると三日坊主に終わってしまうのだろう。料理も一緒で、筋肉がついてくると技巧を凝らしたり季節感を加味した料理も日々の食卓に織り交ぜることが出来てくる。というか、やりたくなってくるんだな。ムキムキの人って自分の筋肉を更にいじめ抜くの好きな傾向にあると思うけど、料理もそう。ちょっと自分をいじめて普段作らないもの作ったり、料るのが面倒な食材に手を出したりしたくなる。ここまで来たらもう勝ちも同然だ。何と勝負してるのかわからないけど。

何と勝負してるのかって話になると多分「自分」なんだろうね。筋トレも料理も楽しむ余裕が出てくる。そういう工学的な意味であるところの「遊び」のあるかないかが人々の目指すところなんだろうなと思ってみたり。

愈々何が言いたいのかわからなくなってきたので今日のところはこの辺りでシメにかかろう。

昨晩、私より早く帰宅した主人が夕飯と今日のお弁当用にと卵焼きを二本焼いてくれた。

普段料理をしない主人曰く、「『俺は庶民の卵焼きを作るぞ』と思えば卵焼きは作れるものだな」

そうだ、それなんだ。つまりそういうことだ。

背伸びしない、仮にしたとしても背伸びし過ぎないことの積み重ねだよね。食べることは生きることに直結しているので。

 

今日も今日とて夕飯の献立を考えながら

 

おしまい