『きのう何食べた?』にみる生活そのものとしての精神分析的ワークスルー
「タチネコで言えばネコ」な西島秀俊が見られるの、心の底から生きてて良かったなと思いますね。テレビ東京へ五体投地。
お腐れ的な感想はほどほどにして、「ワークスルー」の話をしたいと思う。
恋愛と結婚の違いなんていうテーマはもう手垢がつき過ぎているけど、要は恋愛には「生活」がないということに尽きると思う。
https://twitter.com/toppinpararin/status/1065125255713181696?s=21
私がTwitterでフォローしている甘木サカヱさんは、『生活には正解も正義もない』と金言を残している。義父母との戦略的同居を選択した勇ましい方の言葉であるからして、いやはや重みが違うね。頭が上がらない。
『きのう何食べた?』のシロさんとケンジの二人も恋愛関係にあるが共に暮らしていて、もうそこには二人の「生活」がある。
(ちなみに『きのう何食べた?』は浅学ながら原作未履修なのでお手柔らかにお願いしたい)
人に言えば十中八九驚かれるレベルで早婚の私は、なにかと「結婚」について語るタイミングが多い。それは「何故その年齢で」とか「それならもう遊べないのね」とか「大変でしょう」とか言われたり訊かれたりするからなのだけれど。
「顔が好きだから何でも許せてしまう」と笑い話にするのがここのところは鉄板になっている。実際顔はめちゃめちゃ好きなんだけれど、ムッとすることはいくらでもあって。その中にも喧嘩に至らず自分の中だけで完結して許せることもあれば、わざわざ言及して口論をすることもある。ここでいう口論は、所謂お話し合いのことね。お話し合いをしたところで解決しないこともある。でもそれも当然のことなんだよな。だってそもそもは他人同士だし。話し合って全てが解決するのなら、戦争も根絶していることだろうね。
ところで「わざわざ言及して」と表現したのはやっぱり出来るだけ喧嘩をしたくないからであって(私個人は口論=お話し合いをすることは好ましく思っている)、それは解決しなくても喧嘩に発展してしまっても二人の生活が嫌が応にも続いていってしまうからである。
『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」に二人で入れるならいいかもしれないけど。暴言を吐き続けていたら夜が明けるし、朝が来たら働かなければいけない。どんなに憎らしく思っていても腹が減るし、きっと目の前の男もお腹を空かせていることだろうと類推してしまう。
精神分析のことをほんの少しだけれどかじってみて、なるほどなと思うところがある。ああ、あれはそういうことだったのかなと名前が付く。勿論私は門外漢なので臨床経験などちっともない。だけどそれはやっぱり夫婦関係も、仕事での子ども達との関係も、程度の差はあれ、人間と人間の心を交わらせて何かを生み出す営みであるから。私たちの生活にも通じるところがあると思うんだ。
精神分析の詳しいことは、藤山直樹先生の著書(精神分析がなんにもわからない学部生向けの講義を起こしたものなのでとてもわかりやすい)を読んでもらえるといいと思う。
とりあえず必要な部分だけをかいつまんでいくと、人は「考えること」が苦痛であるときしばしば「繰り返すこと」に置き換えてしまうという考え方がある。何度男が変わっても絶えず殴られてしまう女の人っていると思うけど、何のことはない、同じことを繰り返して幼い頃に父親に殴られていたことを考えているのだ。なんだかこの女と一緒にいると殴りたくなるような気持ちにさせられてしまう、というのは実際あるんだと思う。勿論殴りたい気持ちになって本当に殴る男は良くない。しかし、そういう気持ちに何度も何度もさせてしまう、相手をする誰もがそういう風になってしまう、それを投影同一化と言う。
そういった被分析者に対して、「何か話してください」とやって、解釈を与えて、また話が続いて、解釈を与えて。その関わりの中でなんだか殴りたくなるような気持ちにさせられても、殴らずにこらえる。こらえて、二人でその状況を乗り越える、乗り越え直す。それを「ワークスルー」という風に言う。精神分析とは、ハッとするような鋭い言葉を与える必要はない、殴りたい気持ちになってしまっても構わない、むしろ「殴りたい気持ちになるけど一緒にいる」「一緒にいてやり過ごすことに成功する」そういう営みなのだ。
ああこれは、夫婦の「生活」だな、と思う。夫婦じゃなくていい、「家族の生活」だ。どのような人にも大なり小なり内面に病気的な部分がある。それをこらえて一緒にやっていく、それが恋愛と訳が違うところだ。
生活ってなんだかテトリスみたいだって思う。間違ったところにブロックを置いてしまっても、次のブロックは待ってくれないよね、喧嘩をしても次の朝がやってくるように。ひどい言葉をぶつけても、なかったことには出来ない。間違って置いたブロックはもう元には戻せないのだ。その後するべきことはただ一つ。それ以降のブロックをしかるべき場所に確実に置いていって、少しずつ間違いを消していくしかない。一つの謝罪が全てを解決しないように、一つのブロックが状況を劇的に改善してくれることもない。ただひたすら、落ちてくるのを、地道に重ねて、整えていくしかない。ね?「ワークスルー」でしょう?
ケンジの言葉を受け、謝るでもなく食事を作るシロさん。ごまかしていると思いつつも一緒に食べるケンジ。「ワークスルー」だね。
私の主人はもうずっと、根気強く「ワークスルー」をやり続けてくれている。おかげで出会った頃より、私の病気部分はかなり小さくなったと思う。こういう風に名前が付けられてホッと出来る程度にまで。感謝しかない。
結婚というのはね、良いものですよ。本当にそう思います。何がどうあっても一緒にいるぞ、って腹くくること、それが「結婚」で、「家族」で、「生活」だね。
今日はかなり力(りき)を入れて書きました。まあこんなこともある。
おしまい