無けなしの命がひとつ
私の前にしゃんとした老婦人が歩いていた。そこそこの量の荷物を両手に持ってエスカレーターに乗り込んだ。背後から少し失敬して覗くとトートバッグには書類の束が入っていた。キチンとしたツーピースのお召し物に少し高さのあるヒールで、何か一仕事終えてきたようなそんな様子だった。
「こんなババアになりたかったなぁ」と思った。褒めているし、めちゃくちゃ敬意を表している。羨ましいんだ許してくれ。すげぇばーさんだよ。田舎にいる私の祖母とは大違いだ。私は多分祖母のように、老化によって人間が変わり果ててしまう側だ。私は今目の前にあるような「素敵な年の重ね方」は出来ない。出来る自信がない。だから私は63になったら死ぬ。そう決めている。
素敵に年を重ねられる人間は、私と比べて10年よりもっと長い時間社会に尽くすことが出来る。素敵に年を重ねられる人間は、私よりも十数年分あるいは二十年分は有用性が高い。
こんなじゃダメなんだろうなと思う。もっと私に与えられた無けなしの命を使い尽くして生きていかなければならないのだろうと、思う。
自分を追い込んで追い込んで、出来ることなら過労死で死にたい。そうすれば許される気がする。誰にだろう。多分自分自身にだ。そこまでは流石に出来ないんだろうけど。
命、積極的に削っていきたい。これが私の望んでいたゆるやかな心中である。
おしまい
俺は戦士
それを手放して、激しさの中に舞い戻ることが出来ないのであれば、安息を享受してはならないか
安らぎを得ている最中(さなか)に「腰抜けが」と指摘され、怒りを覚えるのであれば、得てはならない安らぎなのか
安息が安息であるためには、煩いや心配や苦痛が再び訪れなければならない。休符は再度音が鳴るから休符であることが出来るのであって、二度と音が鳴らないのであればそれは曲の終わりである、休符ではない
苦痛を耐えるためにはいっときの静けさが不可欠だ。止まない苦痛はあまりに耐えがたい。しかし苦痛や煩いを忘れさせてしまう静けさなら、これを受け入れるべきでない
戦いを頭の隅に留めていることが出来る穏やかであるかどうか、判断をしてから飛び込むことが求められているのか。求められたからといって、果たしてそれを実行することが出来るのか
そもそもその穏やかはチラと姿を見せたまさにそのときに逃さず飛び込んでしまわなければ味わうことの出来ない稀少なものではないのか
悪い穏やかが過ぎて行くのを見送り、よい穏やかがやってくるのみを歓迎することが、そんなことが本当に自分に出来るのか
法令遵守とか社会とかそういうものたちにたくさん気をやるとこういう風にしか書けなかった。
それこそが「感情労働」の辛さの要因ではないのかと思う今日この頃。
物語を必要とするのはしんどいやつだけみたいなツイートを見たことがある気がする。多分物語なんてなくても毎日幸せな人たちっていうのは本当に存在するんだと思う。しんどいから物語を必要とするのか、物語を必要してしまうからしんどくなるのかはわからないけど。
『進撃の巨人』が今(2019/09/12現在)タダで読めて、今更読むのかと思いながら読み尽くした私は紛うことなく絶賛しんどい中である
「俺は戦士」だけど、オーラロードは開かれないんだな、これが。
おしまい
最近の私
気付いたらひとつきくらい経ってたので最近の思うことを手短かにまとめます。
・エンドゲーム観た
推しがあんまり救われなかったので、まだ吹替おかわりは出来ていません。
正直一本の映画としてはIWの方が好きなんだけど、それはそれとしてアイラブユー3000
・美人が職場にやってきた
デレデレしながら働いている。顔が美しいってズルいな。ふと見せる粗暴な言動にすらときめいてしまう。これ本当にズルくない?私がやったらただの野蛮な人なのに
・あちこち痒い
皮膚科と懇ろになっている。アトピーに苦しむ主人を思い「半分私に分けてください」と神様にお祈りしてきたけれど、神は我々夫婦の苦しみを半分ずつにするのでなく単純に倍にしてくれやがりました。とはいえ、こういう風に辛いんだよなということがわかるだけでも嬉しいので甘んじて受け入れていくことにします。手の届かないところに薬を塗り合うことが出来るしね。サンキュー、ファッキンゴッド
次は、細部に神が宿る話をしたいと思っています。『ファイト・クラブ』のめちゃくちゃ好きなセリフについて言及するぞ
楽しい話をしてたいね
おしまい
浮力
『生活のたのしみ展』が始まった。
https://seikatsunotanoshimi.1101.com/2019_spring/
日曜日には有楽町に行って主人のNEW仕事用カバンを買うというビッグイベントがあるので、ついでに丸の内に寄ってみようかなとチラリと思う。選挙もあるので忙しい日になりそうだ。
https://www.1101.com/m/recent/darling.html
こっちは『今日のダーリン』
「そつがあります」と言い切って笑うのめちゃめちゃ格好良いよなあ。すごい。
ところで、ちょっと心が軽くなったのでほぼ日手帳weeksの今週の言葉を引用する。
四月のいまごろは、戸惑いの時間。
急いでどうにかしようとしなくてもいい。
小さくてもたのしいことを、ひとつでもふたつでも
見つけられたらいいんじゃない?うまくても、へたでも
そこに「一生懸命にいる」ことだけが大事だと思っていい。
ーーー糸井重里が『今日のダーリン』の中で
昨日主人と話していて、ここ最近の気分の沈みまくるとんでもない疲労感に最もらしい理由が付けられた。ここのところ「いい仕事」をさせてもらえてないのだ。
社会にはもう一発逆転はないとわかっていてもとりあえず手をつけなければならない仕事がたくさんあるね。反対に、周りを見回して「いい仕事したな自分」と思えるような仕事もある。そういう仕事の後は、肉体的な疲労はあれど、でもそれは寝たら次の日にはちゃんと元気になっているんだよね。
(こういう仕事あるあるが言い合えるところ、主人の良い伴侶ポイントだと思っている。同業じゃなくても真摯に仕事に向き合っている人間とは共通の言語を持って話が出来るのだ)
「いい仕事」、めちゃめちゃしたい。それは環境のせいだけでなく、勿論自分の力不足もあるんだけどさ。でもね「一生懸命にいる」はずっとやれている気がするよ。「いい仕事」は時の運もあるよね。
疲れ切ってヘトヘトで沈みまくってるのはなにも私だけでなく、昨日は同僚と「最近バタバタで大変だよね」「疲れ具合が全然違うよね」「家帰ったらすぐ寝ちゃう」と口々に言い合って、なんだか少しラクになった。私は「孤独」にも「独りじゃないこと」にも救われる矛盾の塊だ。みんなでじりじりと耐えながら少しずつ潮目が変わるのを待つよ。楽しいことも見つけながらね。
もう一つだけ糸井重里氏の言葉を引用してシメに入ろう
お湯にからだをつけて浮力をたのしむ。そして温度というごちそうを、肌から受けいれる。湯気を呼吸して、湿り気をいただく。お湯にじぶんをゆだね、まるごとをやわらかくする。これを毎日やっている人と、やっていない人の間には、けっこうなちがいがあると思うんだ。温泉ばかりがお湯じゃない、もっとお風呂につかろうよ。変温動物のように、お湯に温度をもらいましょうや。
これはほぼ日手帳に「気分を切り替えるヒント」として巻末に載っている。昨晩は、久しぶりにお湯を張ろうと思ったのだったが、残念ながら湯船に入れない状況だったことを失念していた。今日からはまた、22時に家に着く生活が始まってしまうのでしばらくシャワー生活だ。悲しい。本当は私はお風呂大好き人間なのだけれど。
どうかこのブログを読んでくれている人たち、私の分もお風呂につかってぷかぷかしてくれよな。浮かんでると楽しいからさ。
おしまい
毎日しんどい
仕事のことを考え続けていたらこんなに日にちが経ってしまった。毎日考えることの中にも全世界に公開するわけにいかないものが沢山沢山ある。本当は考えることすらいけないようなことだって、相当数ある、私の頭の中には。
私は子ども達にもよくこう言って聞かせる。「わざわざそんなこと言わなくていいでしょ。本当はどう思っててもいいけど、わざわざ口に出して人を傷つけるのは良くない」と。
内心の自由と言えば聞こえはいいが、卑怯なやり方だなあと思う。我ながら。
でもまあ、無理だよね。正直ね。私はこのぐちゃぐちゃの心の中に自分がただ一人という状況に他にはもうどうしようもないくらい救われる。ホッとするよね、孤独って良い。結婚は良いものとか前回言っておいてなんだけど。
孤独であることを必要以上に恐れることと、孤独であることに救われることと、どちらがより不健全なんだろうか。でもちょっとくらい後者をすすめる大人が居たって構わないよね。こんな私でも必死に生きてるんだ、見ててくれよ子ども達。大丈夫だからよ。
今日はこれくらいにしておこう。多くを語り過ぎるのもダサいのでね
おしまい
今日はしんどい
今日はもう体力がないので献立の紹介をします。
・豚丼
玉ねぎと白ネギ、豚バラスライスを炒めて甘じょっぱく煮ます。
・小松菜と卵の中華炒め
総味シャンタンのポテンシャルの高さに甘えます。
・人参のカレー炒め
細切りにした人参を炒めてフレークのカレールーで味付けします。冷凍のコーンも入れました。
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これがめちゃめちゃ仕事出来るナイスガイなので、人参がものすごい速さで細ーくなります。買うと確実に幸せになります。
今日伝えたいことはこれくらいです。まあそんなこともある。
おしまい
『きのう何食べた?』にみる生活そのものとしての精神分析的ワークスルー
「タチネコで言えばネコ」な西島秀俊が見られるの、心の底から生きてて良かったなと思いますね。テレビ東京へ五体投地。
お腐れ的な感想はほどほどにして、「ワークスルー」の話をしたいと思う。
恋愛と結婚の違いなんていうテーマはもう手垢がつき過ぎているけど、要は恋愛には「生活」がないということに尽きると思う。
https://twitter.com/toppinpararin/status/1065125255713181696?s=21
私がTwitterでフォローしている甘木サカヱさんは、『生活には正解も正義もない』と金言を残している。義父母との戦略的同居を選択した勇ましい方の言葉であるからして、いやはや重みが違うね。頭が上がらない。
『きのう何食べた?』のシロさんとケンジの二人も恋愛関係にあるが共に暮らしていて、もうそこには二人の「生活」がある。
(ちなみに『きのう何食べた?』は浅学ながら原作未履修なのでお手柔らかにお願いしたい)
人に言えば十中八九驚かれるレベルで早婚の私は、なにかと「結婚」について語るタイミングが多い。それは「何故その年齢で」とか「それならもう遊べないのね」とか「大変でしょう」とか言われたり訊かれたりするからなのだけれど。
「顔が好きだから何でも許せてしまう」と笑い話にするのがここのところは鉄板になっている。実際顔はめちゃめちゃ好きなんだけれど、ムッとすることはいくらでもあって。その中にも喧嘩に至らず自分の中だけで完結して許せることもあれば、わざわざ言及して口論をすることもある。ここでいう口論は、所謂お話し合いのことね。お話し合いをしたところで解決しないこともある。でもそれも当然のことなんだよな。だってそもそもは他人同士だし。話し合って全てが解決するのなら、戦争も根絶していることだろうね。
ところで「わざわざ言及して」と表現したのはやっぱり出来るだけ喧嘩をしたくないからであって(私個人は口論=お話し合いをすることは好ましく思っている)、それは解決しなくても喧嘩に発展してしまっても二人の生活が嫌が応にも続いていってしまうからである。
『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」に二人で入れるならいいかもしれないけど。暴言を吐き続けていたら夜が明けるし、朝が来たら働かなければいけない。どんなに憎らしく思っていても腹が減るし、きっと目の前の男もお腹を空かせていることだろうと類推してしまう。
精神分析のことをほんの少しだけれどかじってみて、なるほどなと思うところがある。ああ、あれはそういうことだったのかなと名前が付く。勿論私は門外漢なので臨床経験などちっともない。だけどそれはやっぱり夫婦関係も、仕事での子ども達との関係も、程度の差はあれ、人間と人間の心を交わらせて何かを生み出す営みであるから。私たちの生活にも通じるところがあると思うんだ。
精神分析の詳しいことは、藤山直樹先生の著書(精神分析がなんにもわからない学部生向けの講義を起こしたものなのでとてもわかりやすい)を読んでもらえるといいと思う。
とりあえず必要な部分だけをかいつまんでいくと、人は「考えること」が苦痛であるときしばしば「繰り返すこと」に置き換えてしまうという考え方がある。何度男が変わっても絶えず殴られてしまう女の人っていると思うけど、何のことはない、同じことを繰り返して幼い頃に父親に殴られていたことを考えているのだ。なんだかこの女と一緒にいると殴りたくなるような気持ちにさせられてしまう、というのは実際あるんだと思う。勿論殴りたい気持ちになって本当に殴る男は良くない。しかし、そういう気持ちに何度も何度もさせてしまう、相手をする誰もがそういう風になってしまう、それを投影同一化と言う。
そういった被分析者に対して、「何か話してください」とやって、解釈を与えて、また話が続いて、解釈を与えて。その関わりの中でなんだか殴りたくなるような気持ちにさせられても、殴らずにこらえる。こらえて、二人でその状況を乗り越える、乗り越え直す。それを「ワークスルー」という風に言う。精神分析とは、ハッとするような鋭い言葉を与える必要はない、殴りたい気持ちになってしまっても構わない、むしろ「殴りたい気持ちになるけど一緒にいる」「一緒にいてやり過ごすことに成功する」そういう営みなのだ。
ああこれは、夫婦の「生活」だな、と思う。夫婦じゃなくていい、「家族の生活」だ。どのような人にも大なり小なり内面に病気的な部分がある。それをこらえて一緒にやっていく、それが恋愛と訳が違うところだ。
生活ってなんだかテトリスみたいだって思う。間違ったところにブロックを置いてしまっても、次のブロックは待ってくれないよね、喧嘩をしても次の朝がやってくるように。ひどい言葉をぶつけても、なかったことには出来ない。間違って置いたブロックはもう元には戻せないのだ。その後するべきことはただ一つ。それ以降のブロックをしかるべき場所に確実に置いていって、少しずつ間違いを消していくしかない。一つの謝罪が全てを解決しないように、一つのブロックが状況を劇的に改善してくれることもない。ただひたすら、落ちてくるのを、地道に重ねて、整えていくしかない。ね?「ワークスルー」でしょう?
ケンジの言葉を受け、謝るでもなく食事を作るシロさん。ごまかしていると思いつつも一緒に食べるケンジ。「ワークスルー」だね。
私の主人はもうずっと、根気強く「ワークスルー」をやり続けてくれている。おかげで出会った頃より、私の病気部分はかなり小さくなったと思う。こういう風に名前が付けられてホッと出来る程度にまで。感謝しかない。
結婚というのはね、良いものですよ。本当にそう思います。何がどうあっても一緒にいるぞ、って腹くくること、それが「結婚」で、「家族」で、「生活」だね。
今日はかなり力(りき)を入れて書きました。まあこんなこともある。
おしまい