俺は戦士

 

それを手放して、激しさの中に舞い戻ることが出来ないのであれば、安息を享受してはならないか

安らぎを得ている最中(さなか)に「腰抜けが」と指摘され、怒りを覚えるのであれば、得てはならない安らぎなのか

 

安息が安息であるためには、煩いや心配や苦痛が再び訪れなければならない。休符は再度音が鳴るから休符であることが出来るのであって、二度と音が鳴らないのであればそれは曲の終わりである、休符ではない

苦痛を耐えるためにはいっときの静けさが不可欠だ。止まない苦痛はあまりに耐えがたい。しかし苦痛や煩いを忘れさせてしまう静けさなら、これを受け入れるべきでない

戦いを頭の隅に留めていることが出来る穏やかであるかどうか、判断をしてから飛び込むことが求められているのか。求められたからといって、果たしてそれを実行することが出来るのか

そもそもその穏やかはチラと姿を見せたまさにそのときに逃さず飛び込んでしまわなければ味わうことの出来ない稀少なものではないのか

悪い穏やかが過ぎて行くのを見送り、よい穏やかがやってくるのみを歓迎することが、そんなことが本当に自分に出来るのか

 

 

法令遵守とか社会とかそういうものたちにたくさん気をやるとこういう風にしか書けなかった。

それこそが「感情労働」の辛さの要因ではないのかと思う今日この頃。

 

物語を必要とするのはしんどいやつだけみたいなツイートを見たことがある気がする。多分物語なんてなくても毎日幸せな人たちっていうのは本当に存在するんだと思う。しんどいから物語を必要とするのか、物語を必要してしまうからしんどくなるのかはわからないけど。

進撃の巨人』が今(2019/09/12現在)タダで読めて、今更読むのかと思いながら読み尽くした私は紛うことなく絶賛しんどい中である

 

 

「俺は戦士」だけど、オーラロードは開かれないんだな、これが。

 

おしまい